『ものや思ふと』   大迫←バンビ                  視点:大迫




国語科資料室の扉を開けると古い本の少しかび臭いような匂いがした。
どれだけ換気をしたところで、おそらく部屋そのものに染み付いたこの古い本の匂いは消えないだろう。現に今はもう放課後で、今日一日でも何人かの国語科を始めとする教師がこの資料室を利用したはずなのに、まるで一日誰も足を踏み入れなかったかのような印象を受けた。

それでも換気のために窓に開いてから、室内の真ん中に位置する作業机を拭く。
今日は自分以外の国語科の職員の大半が研修で放課後から居ないし、残っている職員も資料室は利用しないという。
クラス担任も今年で三年目を迎え、慣れてきたとはいえ色々と気疲れする。
羽を伸ばしたかったこともあり、遣り残していた仕事を持ってここにこもる事にした。

しばらく集中して授業の準備や書類書きをしていると、控えめに扉がノックされた。
慌てて「はい」と返事をする。遠慮がちに開いた扉から、女生徒が顔を覗かせた。

「おぉ、なんだぁ。分からない問題でもあったか」

古典のことで聞きたいことがあるという彼女を資料室に通す。
作業机の空いている椅子をすすめる。机に広げていた書類は適当にまとめて端に追いやった。

学年一番の優等生で、今年のローズクイーン候補とまで噂される生徒だ。
学年が上がるごとにクラス替えがあるにもかかわらず、彼女は三年間きっちり受け持ちクラスに在籍していた。
彼女がまだ一年生の頃にテストで赤点を取って補習をしたことがある。補習が終わった教室で勉強が好きになれないと言った彼女に、全力でぶつかれと教えた。
そこに愛があれば応えてくれる。それが青春だ。
そうは言ったが、まさかローズクイーンの候補にまで伸びるとは誰が予想できるものか。

彼女の分からないという箇所を教えながら、ぼんやりと思い返す。
横からふぅとため息が聞こえて、そちらに目を向ける。無意識なのか、問題を解きながら彼女の口から度々ため息が漏れてくる。
そうして考えてみると、今日の質問の箇所も普段の彼女ならそう躓かないように思う。

「なんだぁ、恋の悩みかぁ」

高校三年生にもなればたくさんの悩みを抱えていることは容易に想像できる。そんな悩みや葛藤、そして成長。それもまた青春。
ノートに向けられていた彼女の顔がこちらを向いて、一瞬遅れてあからさまな動揺が走る。
不自然な表情の上に無理やり笑顔を貼り付けて「なんでそうなるんですか」と俺の肩を小突く。

「顔とか、様子とか。悩んでるなら、先生いくらでも相談に乗るぞ」

「先生はお前の青春後見人だからな」と笑いかけると、彼女は困ったような笑顔を返してくる。
一拍ばかりの間をおいて、彼女はこちらからすぅっと視線を逸らす。

「相談できるような恋じゃないんです。ずっと胸に秘めておくつもりですから」

彼女の口からまたため息がこぼれた。
何かぼんやりとした既視感を覚えて、椅子から立ち上がる。資料室の隅に邪魔にならないように置いたままにしてある自分のスポーツバッグ。授業で使いそうな私物を詰めてあるそれを開くため、床に座り込む。

「先生?」

目的の物はすぐに見つかった。作業机に戻って、ちょっと古ぼけたその箱を置く。

「百人一首ですか」

そうだと返しながら、箱を開けて中の絵札を手に取り、片思いをテーマに歌われたものだけを選別していく。
お目当ての札を見つけたので、ほかの札を適当に避けてそれを彼女に見えるように置き、声に出して読む。

「“しのぶれど、色に出でにけりわが恋は、ものや思ふと人の問ふまで”ってやつだ」

平兼盛の歌だ。忍ぶ恋が顔に出てしまって、恋患いかと心配される歌。
これが既視感の正体だろう。

彼女はじっと絵札を見つめている。
その札を彼女に近づけるように押しやると、不思議そうに顔を上げる彼女と目が合った。

「お前にやろう!これをお守りにして、全力でぶつかって行けぇ!」

札をとこちらの顔を交互に見て、でもとか私はとか言う彼女の言葉を押し切って続ける。

「お前はまだ若いのに、忍ぶ恋なんて悲しいぞ!そこに愛があれば形はどうあれ応えてくれる。それが青春だ。勉強にも行事にも、全部に全力でぶつかったお前が恋にだけ臆病になるなんて、青春が可哀想だぁ!」

そう言って彼女の手を取ると、札を握らせる。

「その恋に、全力でぶつかれたらこの絵札に目を入れてお正月に燃やそう。先生、お前が卒業した後でも付き合うぞ!」

ずっと困ったような悲しいような顔をしていた彼女が、やっと楽しげに笑ってくれた。
鞄から手帳を出して、大事そうに札をしまいながら彼女が立ち上がる。

「ありがとうございました。勉強もなんとかなりそうだし、先生のおかげで元気出ました」

資料室の入り口まで彼女を見送りに立つ。廊下に出てすぐに、彼女が振り返って真っ直ぐな瞳を向けてきた。
そうしてすっと手を取られる。さっきまでの頼りない印象とは打って変わって凛とした様子に、思わず心臓が跳ねる。
さっき、自分がしたように彼女の手から札を握らされる。渡した札は手帳に入れてたから、これは別の札か。

「全力でぶつかってみようと思います。ちゃんとぶつかれたら、この札も一緒に燃やしたいです。それまで持っててください」

それだけ言うと、彼女は振り向きもせずに帰っていった。
それを見送ってから、手に残された札を見る。
藤原実方朝臣。

読んで、現代語にして、これを彼女が自分に渡した意図について考える。
頭の中で三回はその作業を繰り返した。
四回目に入る前にカチリと、それまでわざわざ避けていた方向に思考が流れた。

急激に上昇した心拍数に耳鳴りがする。
紅くなった顔を誰かに見られるのが嫌で、早々に資料室の中に引き篭もった。





『かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを』








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