『のち、暗転』   高坂貴彦+主人公←桜葉                  視点:高坂




珍しく仕事が早く片付き、定時に学校を出ることができた。
だからといって別段嬉しいとも思わなかった。
早く帰ってやることがあるわけでもない自分にとっては、何時に帰ろうと変わらない。
ただ、前々から特別楽しみにしている計画が明後日に控えていることで、気持ちは弾んでいたのだろう。
そうでもなければ、校門の前で挨拶をしてきた教え子に、無感情に挨拶を返して切り上げることをせずに漫然と話し込む理由など考えられない。

「先生、何か嬉しいことでもあったんですか」

考えていたことが顔に出ていたのか、女生徒が首をかしげる。
「ええ、少し」とだけ返すと、彼女は納得したようなしないような表情を浮かべたものの、それ以上は踏み込んでこなかった。
自分の受け持っているクラスの女生徒。それ以上でもそれ以下でもないというのが素直な感想だった。
彼女は少し考えてから唐突に「お腹すきませんか」と口を開いた。

脈絡の感じられない質問の意図が汲めず、「はあ」となんとも気の抜けた返事が口から漏れた。
途端に彼女は嬉しそうに笑って自分の鞄を探って、彼女の片手に少しあまるほどの、何かの入った紙袋を取り出す。

「パン、嫌いですか」

言いながらビニールに覆われた、アンパンを差し出す。
素直に受け取ると、嬉しそうにこちらに笑顔を向けて自分の分のパンの包装を破こうとする。
そっと、彼女の手を包むようにその作業をさえぎる。

「学校の前で立ち食いもなんですから、公園にでも行きませんか」

きょとんと上がる顔。そのままでも丸い目が更に丸い。

「あ、そうか。ごめんなさい」

ほんの少し頬を赤らめて頷く。
まるで小動物のようだ。か弱くて愛らしい。自分のことを信頼していて、疑うなんて考えてもいない様子。
思わず手を伸ばしてその細い首を捻ってしまいたくなる。

学校からさほど遠くない公園のベンチに腰掛けると、待ちかねたように彼女はパンを頬張った。

「駅前の桜ベーカリーって分かりますか」

自分と同じ顔をした、双子の弟のことを思い出す。その桜ベーカリーの長女である桜葉綾子のことも同時に頭に浮かんだ。

「あぁ、うちのクラスの桜葉君のおうちがやっているパン屋さんですね」

桜葉綾子の弟。桜葉克己。受け持ちのクラスの生徒であり、明後日の計画の主賓とも言える存在。

「あぁ、やっぱり知ってますよね。桜葉くんの家、私の家のお隣で幼馴染なんです」

「だから新商品とかできると時々くれるんです」と嬉しそうに言う彼女の言葉に、少し驚いた。
転入生の彼女と桜葉克己が幼馴染とは、考えもしなかった。聞いてみれば家庭の事情で数年を別の地で過ごして戻ってきたのだという。
桜葉克己のことは注意して観察していたつもりだったが、彼女のことは見落としていた。 現在の関わりは薄いのだろうか。

それからしばらく会話をして、お互い帰宅した。
帰宅してからも彼女のことを考えていた。幼馴染の存在。弟はおそらくそのことを知らないだろう。
伝えるべきか。いや、伝えるほどの話なのか。
考えるともなく考えて、結論も出ないままに一日を終えた。

翌日、学校についてからいつにも増して注意深く桜葉克己と彼女を観察してみると、なかなか面白い予想が立った。
桜葉克己は彼女に想いを寄せているかもしれない。
推測の域を出ないものの、その予想はなかなかに面白い発見だった。

放課後になって空に灰色の雲が立ち込めた。職員室の窓を、ぽつぽつと雨が叩き始めた。
そのまま外に目をやると、彼女が立っていた。
雨を受け止めるように空に手を伸ばしている。後ろからオレンジ色の傘が近づいて、その姿を隠した。
傘の反対端から茶色い癖のある髪が覗く。桜葉克己。
傘は二人の間を少しの間行き来したようだが、結局彼女の手に収まることになったらしく、彼のほうは雨の中を走って帰ったようだった。
予想は徐々に確信へと変わりつつあった。

結局、弟には何も伝えないまま迎えてしまった林間学校当日。
何故言わなかったのか、考えてみても明確な回答は浮かばなかった。だから考えるのはやめた。
校外学習にはしゃぐ生徒たちの中に彼女の姿を見つける。
転入生だからか、まだいくらか浮いている彼女の近くには友達の姿はなかった。
とはいえ、普段教室での人付き合いもそこそこ上手く言っているようだから、今たまたま一人なのかもしれない。
少し離れたところに男子生徒の輪が見える。桜葉克己が居た。

落ち葉に埋もれた松ぼっくりを拾って眺めている彼女に、近づいて話しかける。

「楽しんでいますか」

一瞬びくりと肩が跳ねる。近くに誰も居ないと思っていたのだろう。
実際、男子生徒の輪を除けば、付近には人の気配は他にない。その男子生徒たちも、基本的には雑談に夢中でこちらの様子を気にしているとすれば桜葉克己くらいだろう。

こちらの姿を確認した彼女は無防備な笑顔を向けてくれる。


人懐こくて、真っ直ぐで、とても――殺してしまいたい


彼女の首にすぅっと片手を伸ばす。
その手を不思議そうに目で追う彼女の姿に、笑みがこぼれる。

あと数センチ、手が触れる前に彼女の体がぐらりと後ろに傾いだ。
桜葉克己が彼女の腕を掴んで引いていた。

「桜葉くん?」

不思議そうにその顔を見つめる彼女には目もくれずに、真っ直ぐにこちらを射抜くような瞳で見つめてくる。
ほんの数秒で、その視線はあっさりとこちらから外れて、彼女の腕を掴んだままで踵を返す。

「行くぞ」

訳が分からないといった様子の彼女は、小さく「あ、先生、失礼します」と場違いに挨拶をしてそのまま引き摺られて行ってしまった。

もう本当におかしくて、声を出して笑ってしまいそうなのを必死でこらえた。


弟には黙っておこう。だって、きっと知ったら彼女をすぐに殺してしまうから。
そんなのつまらない。
こんなに澄んだ玩具を見つけたんだ。
今日の舞台にこっそり連れて行こう。


そしてたくさん遊ぼう。






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